昭和52年02月18日 朝の御理解
御理解 第84節
「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」
昨日は合楽会でございましたが、本当に時間のたつのを忘れるように、皆さんの殆ど昨日は発表ばかりでしたが、皆さんが発表なさったことの中から、今日の八十四節のとこの、皆さんで考えて頂きたいと思います。桜井先生がまあ発表しておられました。先日から、娘さんの高校入試の事で先生一緒に、学校へ行かれた。もちろん親先生のお取次ぎを頂いて、本人は右が良いと言うておったけれども、神様は左が良いとだからそのほうを取らせて頂いたわけです。
入ってからあの光江さんと言うのですね、娘さん。「光江さん今日はおかげ頂くばい」て、入口に玄関のところに、大きな大黒様が飾ってあったと。もちろんそれは、松江市で、まあ何か寄贈のものらしいです。ただそれはその、出雲のあれですからでしょうね。それがその、見事な大黒様で着物が着せてある。着物が第一亀甲の模様の着物を着せてある。そすと上着には菊の花の模様が入っておる。そしてまあ控えのほうへ下がらせて頂いておったらお茶が出た。
「そのお茶のお盆が先生なんとその、打ち出の小槌がついておるお盆で出された。」「はあ光江さん今日はおかげ頂くばい」と言うて、まああの受験さして貰うて、本人も大変落ち着いて受験ができて、おかげでまあ入学の通知を受けたという、発表でしたでしょうかね。そういう一つのリズムがこの聞こえて来る様な感じで、日々が過ごせていけたら、もう絶対信心が落ちる様な事もなからなければ、信心が挫折する様な事もない。どんな場合でもこの天地のリズムというものは、もう響き続けておるのですから、
次に大和さんが発表しておられました。まあ色々お話の中に、もう最近は十年祭、十年祭で、まあ私の心のなかは十年祭のことでいっぱいで、十年祭にはこういうおかげを頂かねばならん、ああいうおかげを受けなければならんと思わせて頂いております、まあ昨今ですけれども、今朝方からそのお夢を頂きましたと。というのは丁度稲穂、あの水田ですね。稲がこういっぱいしこって、分結しておるような状態で。
そしてどなたかは分からんけれども、お言葉でね十月の取入れが、取り入れの時が見ものじゃというお言葉を頂いた。この調子で分結して言っておれば、いわば十月のいうならば、十六日の御大祭のころには。それこそそん時にお粥が頂ける。そのいうならば実りのときが見物じゃと。そういう発表をなさっておられます。もうこの頃は、先生十三日会のときに、正義先生が発表しておられたように、合楽でどういう、会合が起こりましても、ありましても。
結局は十年祭を目指してという、お話が出らなければいけませんという話をしておられます。これはなら教会だけではありません。家庭の中にあっても、お食事の時でも。いうならばコタツに入って、まあ世間話でもする時に、さあ十年祭十年祭という話があるほどしに、家庭のなかにも盛り上がってこなければ、言うなら教会での盛り上がりはないという意味なんですよ。素晴らしいですね。
確かに十年祭は一人一人の信者の、言うなら力試しであり同時にまた、記念祭とは信者が力を受けるためにあるとまで、教宣して御理解を頂いたんですね先日。記念祭というのは、信者が力を受ける事のために、そしてなら銘々がたとえば、合楽の記念祭ここでは椛目も通してですけれども、祈念祭的行事の時には、必ずかく力を頂いておるものと思われます。おかげを受けております事実を話しておられました。確かに記念祭は、信者が力を受けるために頂く。
その記念祭によって力を受けた、その力とは、念祭の時だけに現せるものではありません。その力は何を持っても、百斤の持てる力がいただけたら、全てのものの百斤が持てる事になるのですから素晴らしいです。次に宮崎さんがお話をしておられました。昨日はあちらのお父さんの十三回忌でございました。それでご仏事が行われたわけですけれども、とにかく、魂の助かりを願うからには、やっぱりお取次ぎを頂いてと言うので、昨日ご夫婦で朝の御祈念の後に、そのお取次ぎがございました。
そしたら先日から頂いておる、真と言う事でしょうね、琴のあの駒がありますね、こう山形のあれにこう道があれに糸がこう入る、はまる道がつけておるところを頂いたんです。あれはどんなに真でありますと言うても、あれに糸道が付いてなかったら、奏でる時いわゆる弾くときに、すとっと下に落ちてしまいましょう。昨日のお取次ぎを頂いて、いうならば十三回忌で、仏教で行いますけれども。
やはり金光大神のお取次ぎを頂いて、天地の親神様のおかげを頂かなければなりませんのでと言うので、昨日夫婦で玉串を上げられておられる時に、私が頂いたのが、今日は良かあのいうならば霊祭が出来ますよ。道は付いたんだ。御霊様へも通う天地の親神様にも通ういうならば、阿弥陀如来様にも通うと言う様な。おかげを頂いたのですよと言う所から話されました。もうまあ姉妹親戚集まっての事でございましたでしょうが、ここの千年寺さんが、あちらの頼み寺でありなさいます。
それでその後にも色々信心の四方山話、それで私共が合楽におかげを頂いてることが分かりますので、合楽の話をさして頂いた。そしたらもうぼん様に合楽示現活動が出来たわけです。そして今合楽ではこう言う事があっております。これは今月の新聞ですけどもと言うて見せられたら、それをもう本当に食い入るように読まれる。それでもうこれを全部読んでしまいたいけれども、これどうぞお持ちくださいと言うたら、大変喜んでほんなら後からゆっくり読ませて頂こうと言うて持って帰られたという。
まあお話をしておられます。どういうなかにでも、いうならば言うなら畑違いと思われるようなところでも、合楽示現活動が出来ておられるという事です。それからまあ中村さん久保山さん、あの人達がおりましたけれども、まあ善導寺ですから、その宮崎さんの奥さんが、その発表しておられます。それはどう言う事かというと、何時も仏事の時には、あの、主人のまあ兄弟がみんな見える。そすとどうかもう、必ず妙なことば言いなさるきん、腹の立って応えんようなことばっかりがあると、霊祭のときに。
良くありがちなことです。まあだから兄弟の方達が、妙なことを言いよりなさったのか、こっちのほうが妙なふうに受けたのか分かりませんよね、実際は。けれども最近ああした夫婦で、打ち込んだご信心が出来ておられますから、もう今日こそ心行でいこうと思いましたとこう言うのです。どんなことを言われても、こちらが心行で有難く受けていきゃ良いのですから、心行で受けていこうと思いましたら、もう不思議にもう穏やかな、それこそ有難い有難い霊祭で。
もうそれが妙なこっどん言う兄弟はお一人もおられませんでした。問題はこちらの受け心、問題はこちらのはまりである。今日は例えばどう言う事があっても、心行一筋で受けていくぞどう言う事があっても、御の字を付けて頂くぞという腹でおりゃ、いうならばそういう妙な話も出ない。ただ有難い。いわばお父さんの言うなら、ご供養がまたはその霊祭が、まあ出来られたというお話でした。本当に有難いですね。一家をあげてご先祖のお祭りがある。お父さんのご供養がある。
しかも親戚兄弟みんな集まって、本当にとにかく、御霊様の働きをそこに感ずる。なるほど今日の御霊様は天地の親神様に道が通うておる。繋がっておる。お取次ぎを頂いて、この霊祭であるから、御霊の助かっておる、その姿をほうふつとして感じることが出来る。御霊様も喜んでござるだろうが、喜んでござるに違いはないという、有難い霊祭が出来たというわけであります。次に中村さんがお話をしておられます。昨日一昨日でした。上野先生ところの、お父さんの霊祭が、ここでございました。
それにおうどんの注文がしてあった。それでその準備がちょっと遅くなったために、時間がたつというのに、まあ持って来て貰えんからと言うので、まあ上野先生が徹美さんにまあいったんでしょう、徹美さんは今ここで修行中でございます。もう修行中は例え家がそばであっても家には帰らんとこう決めておる。けれどもひょっこりその徹美さんが帰られたもんですから丁度中村さんはコタツに入ってうとうととしよった。
そこへ息子が帰ってきとるもんで、あら私は今あんたがこつばお夢で頂きよったというところであった。そん息子がなら合楽が二食ですから、何かひもじゅうなったけん帰ってきたかと思ったわけですね。「何かあんた、ひもじゅうはあるめ」「ぞうたんのごと、例えよしひもじかったっちゃ、さあひもじかけんと言うて家に食べに帰るごたるこっじゃ修行になるわけはないじゃないの」そこから「実はね徹美さん今私は、あんたがお夢を頂きよった」そのお夢がね、あんたが丁度やっぱ来ておると。
それに実際にあんたが来ておるから、もう実はびっくりした。それがあんたがどういう事を言っておるかというと、「お母さんてしばらくこれで辛抱していきよってくれんの」と言うて味噌と鯉を持ってきた。味噌と鯉。そしてふっと目が覚めたら、あんたが目の前たっとるから、お母さんびっくりしたとこう言うのです。味噌と鯉というのは、味噌という事は、味噌つけると言う事。鯉と言う事はお徳と言う事。
御神徳と言う事。私が学院に行くとか、金光様の先生になるとかと言うと、親戚また知った人達がどう言う事を言うか分からない。いうならば「あんたが了見に及ばん、息子ば金光様の先生どんにねーちから、」と言う様な人があるかも知れん。いうならば味噌つけるような事を言うかも知れんけれども、それはそれはあの鯉ではありませんでした、御無礼。あの麩ですね。麩を持ってきた。味噌と麩を持ってきた。あの麩というのは鯉の餌ですよね。そんな味噌付ける様な事があっても、それを知らんものは。
言うて聞かせても言い訳をしても仕方がない、黙って受けていってくれと。それが徳の餌と思うて受けていってくれと。御神徳を受けるための手立てと思って受けてくれという事であるのです。徹美さんは徹美さんで、昨日ここで研修のときに、昨日の朝お夢で頂いておりますのが、鉛筆の芯が折れているのを一生懸命に、こうやって鉛筆の芯を削って、鉛筆を削って芯を出しておるところを頂いた。
それとこれとを思わせて親の祈り。子の思いというものが通い合い、通じ合いしかも信心一筋にそこに繋がっておると言う所に、お話を聞きながら感動しました。素晴らしいのは例えばこう言う様に合楽ではです。それぞれ例えばお夢の中にでも、この様な働きがあるから、信心がいよいよ続けられるのだし、有難いのだし又それが、難儀な事のある場合であっても、神様のそういう働きを頂いていくから、これこそ御徳を受ける、いわば鯉に麩を与える様な。ものだとして頂いていける所に合楽の信心がある。
もう寝た間にも、神様の働きがあっておることを感ずるねと言うて、お話したことでした。これは例えば中村さん親子だけの事ではありません。お互いが信心をするからには、先ず、わが身を削らなければ芯は出ませんです。一心でございます。お願いでございますと言うたって、自分を自分の身を削らなければ、おかげにはなりません。心を削り身を削りです。そこに芯が出る。次に久保山さんが発表しておられました。もう本当に最近はご自分のうちで毎月、共励会をなさいます。
暫く信心がこう落ちておった。そん時にはいうならば仮に今夜は、合楽の先生方が話しに見えるけん、見えてくださいと例えば言うても、だぁれん来手はなかった。ただ中村さんと田中さんが見えるぐらいなことで、本当に来て下さる先生にも気の毒のごとあったけれども、私がちょっと心を向けさして頂くようになって、願わして頂くようになったらもう、思いがけない沢山な人が集まって下さるようになって。それでも今日主人が申しました。ちょうどその日は、の直方の共励会と一緒の日です。
だから直方には直方の先生方が、そん時は丁度自動車三台で分乗して、こちらから行ったという話を聞かれてその家辺りもどげんか、まちっとせんでん良かつかと。お前も一遍だん他所の共励会を一遍どん廻ってみると、他所じゃどげなこつがありよるかと言う事が分かるきん一遍お前は、他所の共励会に廻って見れて言われた事が、とても有難かったという話をなさいました。信心のないご主人がそう言われたと言うのです。ならこんだいっちょ、久留米の佐田さん方の共励会どん、いっちょおかげ頂きなさい。
あそこは、昼と夜と二回ありよりますから、あんたの都合の良か時行きなさいと言ったことでした。それからまた本当に有難いと言う事は、この頃から長男に嫁の話がありまして、見合いをせんかと言うて勧められた。ところが長男がもう上の空のごたる返事してから、もうどうでん良かごたるふうに言う。乗り気じゃないというわけです。それからその晩神様に一生懸命にお願いさせて頂いて、どうぞまあもう年頃ですから、まあ嫁後をもらわにゃならんと言う事について、お願いをさせて頂いたら又お夢を頂いた。
そのお夢のなかでこれも誰かが、その話しかけて下さることの中に。いうならば息子やら、嫁が拝めるようになることが、先ず先だと言う意味の事を頂いておられるわけです。私は本当それを聞いてから、本当に息子の嫁御息子の嫁御とこいう、息子の嫁御ばどうでんこうでんと言う前に、どういう嫁御が来るかも分からない。信心のある嫁御どんが来るなら、なお有難いけれども信心のない、どういう家庭から来るかも分からない。
その嫁御がですに不平どん言い、不足ども言うごたることでは、家のなかが円満に行くはずはない。どういう例えば嫁が来ても、その嫁を拝めるような信心の稽古を先ず、しゅうと親である、私がしておかなければいけないと悟らせて頂いて、本当に神様ちゃ有難いと言うて話しておられます。もう本当に例えばどういう嫁御が来ても、本当に嫁御が拝めれるような、しゅうとお母さんにならせて頂いたら。
いよいよ嫁もおかげ助かるなら、自分も助かる。家は円満と言うことにならないはずがありませんよね。これは本人から次々と頂きますと、もっと実感があって本当に聞いておって、本当に今日のお話もうとにかく、もう十二時なったけんならこれでもうあの、打ち切ってまた、朝が早いからと言うても立ちたがらないもん。もうなんとはなしその、素晴らしいそのお話の中に浸っておったような感じで、もう本当にまた次から次とお話が出て、立ち上がられんように有難い雰囲気の中に、昨日合楽会を終わらせて。
皆さんが今日のその一人一人のお話を、まあ聞いて下さって、今日の八十四節に当てはめてみて頂いたらいいです。こういう信心を続けておる限り、こういう信心をしておる限り、どういう難儀な中にあってもね信心が途中で挫折するような事もあるまい。又は。必ず、踏み広げられて行くことであろうという、今日はお話を昨日の合楽会の一人一人の方の発表から、まあ皆さんが一つ。あぁあの方の話は、あの今日の八十四節のどこにあたるのかと言った様な事を頂いて。
ご自分の信心として頂いて頂きたいと思います。踏み広げて通る信心でなからなければ繁盛とは言えません。もう本当に目先目先の一遍に、ぱあっとしたおかげを願うとか、祈るとかといったようなことの信心。私は昨日の合楽会にお話したことでしたけれども、金光様のご信心は、どうも言わば真の信心とか、金光様の信心は、病気治しや災難よけの神じゃないとかと、それこそ口を酢ゆうして、先生方は説かれるし、また信者もそれを言いますけれども、その言うておる信者信奉者、先生方がです。
金光教とはおかげを頂く、御利益を頂くための神様に、私共がしてしまっておるようなことはないだろうかという事でございます。私共が確かにあらたかな御利益を頂くもんですから、おかげを頂くもんですから、おかげを頂くための金光教に、私共がしておる。それではです、長く続くはずがありません。何か困った思うようなことにならんと、もう言わば、金光様も大した事ないという事になりかねないのです。ですからどうでも、金光様のご信心はね。言わば病気直しや災難よけでは、御利益の神様ではない。
心治しの神じゃと。事毎に改まりさあ研けというならば、研く材料改まる材料を、神様は提供して下さる。おかげは神が授ける。道は氏子が開けと仰るように。沢山のお花の材料を、天地の親神様が私共に下さる。それをしだごだにしたんでは、良い花が生かるはずもありません。その事を心得のある人に。体験を持った人にこう言う事は、どういうふうに生け上げたかと。様々な問題もありましょう。
けれどもそれが難しい問題であればあるほど、その生け上げ方が段々出来たら。そういうほんなら、中村さんの例じゃないけれども。味噌に麩じゃないですけれども、あんたばっかりは、もう本当金光様にぼうけちしもうてから、息子ば金光様の先生どんね、ちからという。いや昨日中村さんが言っておられました「先生もう事実、あるところに修行に来た途端から、もうお客さんから言われ、親戚から実は言われとります。」
とこう言うだから、そういう腹が立って言い返そうごたる問題を、じっと自分のお徳を受けていく、有難いお徳の頂ける、いわば餌にして行くような生き方が出来たら、こんな素晴らしいことはないでしょう。ねごつ言よるの、あんたどんが知りもせんなと、言うこつも、なぁんも要らん。私と子供がいうならば親子の信心が、そのようにして繋がってさえいきゃ有難いことだ。それが有難いものに。
はあなるほどあの人どんが、金光様金光様と言いよったが、やっぱりああいうおかげを受けたと言う様な、おかげに生け上げていく手立てをです。合楽の場合にはそれこそその気でおれば、神様が寝た間も働いて下さってあるという事実をね、聞いていただくと同時に、こういう信心をして行ったら、なるほど信心は楽しゅう、有難う出来る。合楽理念をマスターしてと言う事は、そう言う事の一言一言の中にです。合楽理念を元にして信心を進めていくと言う事は有難い事、楽しいもの。
わが身に信心がついて行くと言う事が有難い。その向こうにあるのがおかげ。いやその向こうにあるおかげを頂くおかげこそが、それは本当の意味においてのおかげであり、神様が喜んでくださってのおかげであると言う事になるのです。
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